万葉集とは簡単に言うとどんな本?作者や百人一首との関係!

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引用:KADOKAWA

皆さん「万葉集」わどんなものか知っていますか?学校で教えてもらって簡単には解るけど、どんな本か?作者は?百人一首との関係は?などの質問をされてうまく答えられなかったりしませんでしたか?

 

私は漠然と解っているだけで、きちんと解りやすく説明できなかったので、万葉集とは簡単にどんな本なのか?作者や百人一首との関係を調べてみることにしました。

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万葉集とは簡単に言うとどんな本?

歌人は、額田王、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持など、天皇から庶民まで、各階層の人々が詠んだ4500首あまりの歌を集めた日本最古の歌集です。

 

天皇から農民まで幅広い階層の人々が読み、読まれた土地東北から九州に至る日本各地に及びます。和歌の前では身分は問わない、というこの姿勢は世界的にみても特異なもの

 

万葉の歌の読まれたまれた時代は、仁徳天皇の皇后であった磐姫皇后の歌(巻二の85~89番)と伝えるものがもっとも古いのですが、

 

実質上の万葉時代は、天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇以降と考えられ、万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの、約130年間といえます。

 

原文はすべて漢字で書かれていて、漢文の体裁をなしています。

 

編集当時はまだ仮名文字が作られていなかったため、漢字を意味どおりに表記している部分と、漢字の意味とは関係なく漢字の音訓だけを借りて日本語を表記する「万葉仮名」と呼ばれる表記法が多く用いられているんですよ。

万葉集の形態や構成

万葉集では五七五七七の短歌が全体の9割を占め、この他に長唄や旋頭歌なども一部収められています。

歌体は「短歌」「長歌」「旋頭歌」があり、

五七五七七の五句からなる「短歌」が4200首あまりで全体の9割。

五七を長く続け、最後を基本的に七音の句で締めくくる「長歌」が260首。

五七七を2回くり返す六句からなる「旋頭歌」が60首。

「長歌」の後に1首あるいは数首添えられたものは「反歌」といわれています。

巻ごとの歌数はかなり差があって、もっとも少ないのは巻1の84、もっとも多いのは巻10の539です。

万葉の時代は4期にわかれている

歌が作られた120年間を「万葉の時代」といいますが、大きく4期に分けられます。

 

「初期万葉」629年の舒明天皇即位から672年の壬申の乱まで。

「白鳳万葉」壬申の乱後710年の平城京遷都まで。

「平城万葉」遷都以降729年の天平元年まで。

「天平万葉」天平元年以降759年までの聖武天皇時代。

 

それぞれの時代に代表歌人がおり、歌風もそれぞれの時代の特色を感じることができる。

 

万葉集は和歌の原点であり、時代を超えて後世の作品にも影響を与え、日本文学における第一級の史料。

 

方言による歌もいくつか収録されていることと、なかには詠んだ人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料なのだそうです。

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万葉集の意味と作者は?

先ず、「万葉集」という書名の意味ですが、名前の意味についてはいくつかの説が提唱されていて、

 

ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説。他には「葉」は「世」すなわち時代の意で、万世まで伝わるようにとの思いを込めた命名ではないかと考えられていて、

 

万葉集の編集、成立の経緯については詳しくは分かっていないのですが、一人の編者によってまとめられたのではなく、それぞれの時代ごとに何人かの編者の手で編集されていたものを、最終的に大伴家持の手によって20巻にまとめられたのではないかとされています。

 

万葉集の区分と編者が推測されている

巻1の前半は、持統天皇やその時代に活躍した歌人の柿本人麻呂。

 

巻1の後半から巻2は、元明天皇や文官の太安万侶(おおのやすまろ)。

 

巻3から巻15と巻16の一部は元正天皇や大伴家持。

 

それ以降巻20までは大伴家持が編集に関係したと考えられています。

 

いずれにしても、天皇や宮廷歌人たちの手によって編集がなされました。

 

巻17以降に大伴家持の歌が多いことや、最後の歌が家持の歌で締めくくられていることから、最終的に完成させた編者は大伴家持というのが定説になっています。

 

天皇の勅撰なのか家持の私撰なのか、さらに他にも編者がいたのかなどの諸説があり、巻ごとの成立年代を示す史料がないためはっきりと限定はできない不明なことも多く残っています。

万葉集には自然が多く読まれている

人々が自然とともに生きていた時代であり、万葉集には山・川などの自然が多く読まれ、人々と自然はとても身近な存在だったのですよ。

 

飛鳥・藤原宮から平城京に至るまで日本の中心であった奈良盆地の中央を流れる大和川は人々にとって親しい川だったので、人々の暮らしと関わって数多くの歌が残されています

 

万葉集は、3つに分類されている

1、「雑歌」は行幸や遊宴、旅などさまざまな折の歌であり、晴れがましい歌が多く含まれています。

 

2、「相聞」はお互いの消息を交わし合う意味で、親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答された歌も含まれますが、多いのは男女の恋の歌です。

 

3、「挽歌」は人の死に関する歌です。人が生を受けて死ぬまでのほとんどの場面が歌われた歌集といえます。

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万葉集とは簡単に言うとどんな本?【百人一首との関係】

引用:Amazon

万葉集が歌集という事で同じく和歌が詠まれている「百人一首」との関係が気になったので紹介します。

百人一首とは?

百人一首とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰の事です。

 

中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首(おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられた事から百人一首といえば小倉百人一首を指すようになったそうですよ。

小倉百人一首

藤原定家が宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で,蓮生の小倉山麓中院の山荘の障子に貼る色紙形の和歌として選んだといわれる100首の歌。

 

天智天皇から順徳天皇までの百人の歌人の秀歌を、定家が一首ずつ選び集めたもので、歌ガルタとして広まりました。

 

その後、室町時代に行われたとみられる歌貝にウンスンカルタが影響して、古今和歌集・伊勢物語・源氏物語などの歌を用いたものから,元禄ごろに小倉百人一首を用いたものに代わり、これが一般化したとされたいます。

万葉集にも百人一首にもある歌

残念ながら「万葉集」から選ばれた歌はありませんが、元歌が万葉集に存在する歌はあります

万葉集にも百人一首にもある歌は次の四首と推測されています。

 

「百人一首」勅撰集(天皇や上皇の命によって編集された)から抜粋する方針で編まれていますので、万葉集から選んだというわけではなく、

 

時代とともに変化した万葉歌が勅撰集に収録されて、それを百人一首に選んだということのようなんですよ。

 

持統天皇と山部赤人の作品は「新古今集」から選ばれていますが、その元歌は万葉集にあります。

但し表現がやや異なっています。

 

持統天皇

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」(百人一首)

「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」(万葉集)

 

山部赤人

「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」(百人一首)

「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士(不尽)の高嶺に 雪は降りける」(万葉集)

 

柿本人麻呂

「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」(百人一首)

「拾遺和歌集」で柿本人麻呂歌とされた歌

「あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」(万葉集)

作者未詳歌と同じ表現で、万葉集 11巻 2802番に「思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を」というのもあります。

 

天智天皇

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」(百人一首)

「後撰和歌集」で天智天皇とされた歌

「秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける」(万葉集)巻十-2174

作者未詳歌が元歌とされています

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万葉集とは人と自然が身近にある

いかがでしたか?参考になりましたでしょうか?

新年号「令和」万葉集「梅花の歌」序文から引用された事で、改めて万葉集とは何か?を調べていくうちに、万葉集とは私たち日本人にとっての原点ともいえる歌集ではないかと思いました。

 

最近はやさしい「現代語訳」などの本も出ているので、もう一度学生に戻って勉強してみたくなりした。

 

また、百人一首も子供のころはお正月になると家族とよく遊びましたが、今ではほとんどその存在を忘れてしまう程でしたので、万葉集と同様に和歌の良さ、自然を感じ、読むという事の素晴らしさを改めて感じました。

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