イニョン王妃は実在した!仁寺洞周辺に廃妃時代に暮らした跡地がある!

韓国情報

みなさん仁寺洞エリアにはもう行かれましたか?メイン通り以外にも周辺には観光におすすめ場所が沢山あります。

 

仁寺洞には朝鮮王朝時代上流階級の方々が住まわれていた地域が今でもそのままの状態で残されているエリアもあり、観光におすすめの場所がたくさんあるんですよ。

 

その中でも今回は、韓国ドラマ「チャン・ヒビン」や「トンイ」にも出てくる仁顕王后が廃妃時代の6年間を過ごした場所を訪れてみたのでご紹介したいと思います。

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イニョン王妃は実在した!【仁顕王后はどんな人物?】

仁顕王后(イニョン ワンフ)とはどんな人物か、知らない人もいると思うので紹介させていただきます。

仁顕王后 閔氏(じんけんおうこう びんし、又はイニョンワンフ ミンシ)

生年月日:1667年4月23日

没年月日:1701年9月16日

朝鮮王朝(李氏朝鮮)19代粛宗の時代の人で日本では江戸時代前半。

 

1680年正室仁敬王皇が病の為亡くなり。粛宗の母と西人派の重臣らの勧めで2番目の正室となりました。当時14歳。

 

は南人派を後ろ盾とする女官出身の側室張氏を寵愛し、西人派の王妃は疎外されていたそうです。また病弱なこともあってか、彼女は生涯、子を産むことは無かったとか、、、、

 

1689年に仁顕王后は禧嬪張氏と南人派の策略によって廃位され、実家に戻されてしまい、仁顕王后を追い出した禧嬪張氏が王妃になり、権勢を振るいました。

 

廃位されて貧困生活を強いられた仁顕王后は、それに耐え続け、それは周辺の人々の同情を集め、やがて王の心に届くこととなり、南人派に押さえつけられた西人派は彼女の復位運動を展開(閔氏重定運動)、それはかつての西人派のような南人派の増長を危惧し南人派を牽制したい粛宗の思惑と合致し、

 

廃位後6年目に粛宗は決断し南人派を一掃、王妃張氏は「嬪」に降格され、1694年に彼女は王妃に復位した。しかし、困窮生活を送っていたためか体調が悪化し、6年後の1701年に昌慶宮(チャンギョングン)景春殿にて崩御。享年34歳だったそうです。



仁顕王后の死後、王妃の死は張氏が密かに巫女を宮殿に招き入れ、王妃が早く死ぬよう呪詛した為死に至ったという淑嬪崔氏の告訴により、禧嬪張氏に賜薬(ドクニンジンの服毒による薬殺刑)が下されました。

イニョン王妃は実在した!【南人派とは】

朝鮮後期、東人から分派した党人。東人は宣祖時代に穏健派の南人と強硬派の北人に分かれた。

 

仁祖反正で西人が執権すると、南人はこれを牽制して批判し、朋党政治の一つの軸をつくったが、執権することはできなかった。顕宗のとき礼訟問題で権力を握ったが、1680年(粛宗6)の庚申換局で西人に権力を譲り渡した。

 

1689年(粛宗15)、張禧嬪(チャンヒビン)の実子の世子〔皇太子〕冊封問題で再び権力を握ったが、1694年(粛宗20)の己巳換局でまた西人に権力を譲り渡し失脚

 

その後はカトリックや実学の研究に没頭した。丁若鏞(てい じゃくよう。李氏朝鮮時代後期の儒学者)は18世紀南人の代表的な人物

イニョン王妃は実在した!【西人とは】

李氏朝鮮の中小の地主が基盤になっている新興官僚の一派・士林派がそのルーツ。

 

朝鮮後期の学問的・政治的に志を同じくする人々の集まりで、性理学(宋の時代に朱子がつくった儒教哲学)的名分論を徹底的に信奉し、

儒学を修めて官僚になった文人,学者,あるいはその予備集団で、儒教的な道徳に基づいた政治を志した集団。

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イニョン王妃は実在した!廃妃時代に暮らした跡地!【感古堂通りを散策】

仁顕王后(イニョン ワンフ)が廃妃生活を送った「感古堂」が有った場所を散策してきました。

 

ドラマ「チャン・ヒビン」や「トンイ」に登場していた仁顕(イニョン)王后が禧嬪張氏と南人派の策略によって廃位された時に暮らしていた場所が「感古堂」

 

朝鮮王朝19代王粛宗が仁顕王后の両親のために建てた家なのだそうですが、現在は京畿道驪州郡(ヨジュグン)のに移転。

 

ですが、もともとは仁寺洞エリア徳成女子高校のテニスコートのあたりにあったそうなんですよ~。そしてこの通りの名前は「감고당거리(カンコダンコリ:感古堂通り)」

 

仁顕王后が廃妃時代に暮らした感古堂通りの場所

感古堂通りは、仁寺洞(インサドン)で有名なエリアにあります。

 

仁寺洞エリアの最寄り駅、地下鉄3号線「安国駅」周辺は 昌徳宮・昌慶宮を始め「歴史の残る地域」なんですよ。

地下鉄 地下鉄3号線「安国駅」1番出口を出てまっすぐ「景福宮」の方向に歩き少し行くと感古堂通りのある交差点が有るのでそこを右折。ちゃんと標識も有りますのでわかると思いますよ。

(朝鮮時代の庶民の医療機関址。 世祖王の時代に「恵民署」と併合された)

 

少し歩いて行くと右手に「徳成(トクソン)女子高」がありました。西側テニスコートあたりにあったそうですが、なにしろ私立高校ですからね。そんなにジロジロ見るわけにもいかないですよね。

 

廃位された後どんなふうに毎日過ごされていたのでしょか、、、、

学校正門には感古堂跡を示す石標が建てられています

引用:ウェキペディア

 

元々は「19代王粛宗が妃の両親の為に建てた」と言われる家なのですが、その後、仁顕王后の同家門出身の26代(大韓帝国初代皇帝)高宗の妃である明成皇后(閔妃)が正式に皇后に挙がる前の時期を過ごされた家でもあるのです。(この明成皇后閔氏はイニョン王后閔氏と同じ家門・後孫です。)

現在その建物は揚州の「明成皇后生家跡地」に移転・復元されています。

 

せっかくここまで来たので周囲を散策。

凄いアートが有りました~

そして、昔ながらの韓屋が残るエリアへ。。。。

 

 

昔ながらの韓屋がオシャレなカフェに!

 

韓屋を残しつつエアコンの室外機が目立ちすぎでは?

 

気の向くままに散策

昔から両班の集落として知られていた「北村韓屋村(プクチョンハノクマウル)」は、全てが朝鮮時代の瓦ぶきの家で、上流階級家屋の造りを大切に保存しているエリア。

瓦には龍が掘られています、龍は韓国では王を表しているそうです。

 

韓国の国花、ムクゲの花が彫られています。

パッピンスも美味しそうですが、夕ご飯の後全くお腹が空かず、とても食べれそうになかったので、泣く泣く素通り。。。。

 

昔の瓦をそのまま残した場所にもこんなおしゃれなカフェが!

 

国立現代美術館が有りました。敷地内が広すぎ~

公式サイトはこちら

 

美術館の裏側に有るジョンチンブギョングン党とオクチョプダン。

かつて王と王妃の衣装を管理した官庁を美術館を建てる際に復元&移転したそう。

 

 

夕日がきれいでした。向こうに見えるのは民俗博物館。

 

現代アートでしょうか?よーく見るとお鍋、やかん、フライパン等で出来たアートなんですよ~

 

美術館を後にし景福宮沿いの道へ出てみると、おしゃれな韓屋カフェ

あ!でもこのあたり「青瓦台」や「大使館」がある辺りなので、私服警察官も歩いており、写真撮影禁止の所も有るので気を付けましょう!

 

 

オシャレな韓屋カフェ。その向こうにアートが!

 

 

 

景福宮を横目に見つつ、おしゃれなカフェMIRROROOM(ミラールーム)を発見したので休憩!

韓屋を改装して作られたこちらのカフェ、店内は至る所にお花が飾ってありとてもおしゃれでした。そして店名の通り、一方の壁面が全部、鏡!なるほどーだ・か・ら「ミラールーム」納得!!

ホットサンドが有名らしいですが、お腹に入る余地なしだったので、お茶だけでした。。。。

 

私が注文したのはリンゴの入ったティー。ホットで頂きましたが、リンゴの香りとシナモンが歩き疲れた身体を癒してくれました。

店内には紫陽花等の花が飾ってありオシャレで落ち着く空間。

梅ソーダの赤いストローがハート♡型で可愛い~

 

 

住所:40, Samcheong-ro 2-gil, Jongno-gu, ソウル 韓国
鍾路区
景福宮 から 0.4 km

「MIRRORROOM」公式サイトはこちら

 

日も暮れてきたので、カフェで休憩した後はにぎやかな明洞へとお買い物へ行きました。

続きは別記事へ

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イニョン王妃は実在した!のまとめ

いかがでしたか?仁寺洞エリアにある仁顕王后が廃妃時代に暮らした跡地、感古堂通りから両班の集落として知られていた「北村韓屋村(プクチョンハノクマウル)」をご紹介させていただきました。

仁顕王后に興味を持たれた方は、宮女の1人が書いた小説「仁顕王后伝」やドラマも有るので見てみて下さい。

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コメント

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