チュニジアへ行く際にツアーで行く方もいると思いますが、自分でアレンジ旅行をしたい方は現地観光ツアーを利用してみようかと考えているかもしれませんよね。
その場合は現地観光ツアーの旅行記は情報源として良いのではないでしょうか?
今回筆者が利用したチュニジアの現地観光ツアー旅行記を参考にしていただければと思います。
チュニジア現地ツアーの旅行記!【現地観光ツアー】
今回利用したのは、ペリカントラベルの現地観光ツアー。
インターネットのやり取りも日本語OKで、宿泊するホテルなどの相談にも乗っていただけましたし、バウチャー印刷などは必要なく。
出発数日前に最終確認のメールと、現地ガイド&ドライバーの名前と電話番号の連絡を頂きました。
ツアー当日もガイドさんと会えたかどうか確認の電話をしてくれるなど対応がちゃんとしていてとてもよかったです。
ガイドさんたちもとても良い方達で、現地のスーパーマーケットなどジモティーが利用し尚且つ安全な場所なども教えて頂け、とても助かりました。
チュニジア現地ツアーの旅行記! 【カルタゴ遺跡とは?】
チュニジアはジルバの国と言われ、3000年前からある北アフリカにある一番古い国。チュニス湖にいる白いフラミンゴが有名です。
カルタゴはフィニキアの女王メリッサによって紀元前9世紀ごろに建設された都市と言われています。メリッサについては後程説明をしますね。
フィニキア人は航海技術に長けていたため、カルタゴは交易の都市として大いに繁栄したのですが、紀元前600~紀元前265年の間にはギリシャとの間で3度のシケリア戦争がおこり、そしてローマとの間には紀元前264~紀元前146の間に3度のポエニ戦争が勃発。
古代カルタゴで最も有名なハンニバル将軍が活躍したのは第二次ポエニ戦争でローマを陥落寸前にまで追い込みましたが、ハンニバル将軍亡き後の第三次ポエニ戦争でカルタゴは滅び、都市は破壊され現在見ることができる遺跡はローマ植民地時代のものだそうです。
紀元前146年にカルタゴが陥落した際、ローマはその復活を恐れ、草一本生えることのないよう塩を撒いたと伝えられています。
残念ながら紀元前 1000 年頃にフェニキア人によって建設されたフェニキア時代の物は無くなっていてその上にローマ時代の遺跡が作られその後イスラーム文化が入りフェニキア、東西ローマ、歴代アラブ王朝、近年ではフランスなど様々な民族や文明の足跡が残っています。
フェニキアの遺跡が残っていない理由は、時代が変わるたびに前の時代の大理石や砂岩をリサイクルした為です。
チュニジア現地ツアーの旅行記!【トフェ】
カルタゴ港に近い住宅に現存している、数少ないカルタゴ遺跡トフェ。
ポエニ戦役で、カルタゴ側の最後の砦となり、ローマに破壊され埋められたのですが、近年発掘され見学できるようになりました。
フェニキアの豊穣(ほうじょう)の神タニットを祀っている神聖な場所で、紀元前男の子の生贄(いけにえ)がささげられていたそうです。
1922年より生贄(いけにえ)を火葬しツボに入れその上に墓石を置いたそうです。(女の子は子孫を増やすために生贄(いけにえ)にならなかったとガイドさんが説明してくれました。)
現在はその墓石のみが集められています。墓石は砂石(さがん)で出来ており、タニット神のシンボルが彫られています。
フェニキア時代の物は全て砂岩(さがん)なので、地層をみるといつの時代の物をどこに再利用したかが解ります。
チュニジア現地ツアーの旅行記!【円形の軍港】
紀元前1世紀にフェニキア人が作った古代カルタゴの軍艦は円形をしていて、220隻の船が停泊できる作りになっています。
この軍港は素晴らしい作りだったため、ローマ時代にも使用されていて、軍港の外側が商業港という構造になっていたそうです。
入り口と出口が別々にあったのですが、現在は塞がれて出入り口は1か所になっています。
チュニジア現地ツアーの旅行記!【ピュルサの丘】
ピュルサの丘は古代カルタゴの中心地だった場所で、ローマ時代の街の下からカルタゴ時代の住居跡が発掘されています。住居跡には、家の内部に風呂とトイレが有り、文明の高さが解ります。
1番長い132kmの水道橋も残っていましたよ。
ピュルサというのは「牛の皮」という意味。
この名前は紀元前9世紀に夫を兄に殺され、この地に逃げてきたレバノンのスールの王女エリッサの故事に由来します。
エリッサはこの地に街を築こうとしますが、当時この地に住んでいたベルベル人から「牛の皮1枚の土地を与える」と言われてしまいます。
賢いエリッサは牛の皮を細く裂いて紐を作って、その紐で土地を囲み、この地を手に入れたのだそうです。
下の写真に写っている丸い石は、大砲の玉に使われていた大理石!こんなのが飛んで来たらひとたまりもないですよね(><)
ピュルサの丘などに残る遺物のほとんどは、ローマ帝国時代のもので、重要な遺物は丘の上にあるカルタゴ博物館に保存展示されています。
筆者が行った時は残念ながら博物館は工事中だったため見学は出来ませんでしたが、博物館の周りに点在する遺跡を見ることが出来ました。
丘からはチュニスの美しい海とかっての円形の軍港跡も見えました。
チュニジア現地ツアーの旅行記!【アントニウス浴場】
ピュルサの丘を下って海の近くに残されている大規模な遺跡が、アントニウス浴場。
海を背にして建てられたローマ時代の公共浴場は20年かけて作られたそうです。
浴場へと続く通路は東西南北に分かれていて、通路にはローマ時代のマンホールもしっかりと残っています。
住居は残っていませんでしたが、お墓の跡をいくつか見ることが出来ました。中でも裕福な家庭のお墓は外にも中にも綺麗なモザイク画が残されていて、お墓の感じがしなかったです^^;
モザイクはフェニキア時代は赤と白だけを使っていたので、モザイクの色を見ればいつの時代の物かわかるのだそうですよ。
アントニヌス浴場は、2階建てで100もの部屋があり、温水風呂や冷水風呂、さらにはサウナまであったそうです。浴場は美しいモザイク画や大理石で飾られ、左右対称の形をしていたといわれています。
奴隷たちが使用した一番下の階を見学することが出来ます。かっての建物は壁にはフレスコ画、床にはモザイクと飾られていたそうです。
左右対称に作られた浴場は男性用と女性用に分かれていたようですが。最後に入る水風呂は中央に有り混浴だったと思われます。
アントニヌス浴場にあるローマの遺物は多くが横倒しになっています。これは自然倒壊もありますが、5世紀に侵攻してきたヴァンダル族の破壊によるものが多くを占めています。
ローマ時代の石像に首が無いのは首のすげ替えの意味なのでわざと壊されたそうです。
又、大理石に蛇が彫られているのを見たことが有る方もいると思いますが、ローマ時代に蛇の毒を薬として利用していたからだそうで、今でもヨーロッパでは、蛇のマークは薬局や病院のシンボルマークとして使われています。
アントニヌス浴場の近辺にはチュニジアの大統領官邸が有るので、写真撮影は気を付けましょう。
カルタゴ遺跡は3km四方の場所に遺跡が点在しているので徒歩だけでは1日かかっても周りきれません。
短時間で効率よく見学したい場合は、ツアーやタクシーを利用することをおすすめします。
まとめ
チュニジアの現地ツアーを利用した旅行記を書いてみました。カルタゴ遺跡は広く、ツアーにしてよかったです。
ガイドさんもとても詳しく説明してくれましたし、観光以外にも地元のマーケット情報など聞けて助かりました。
チュニジアへ行かれる際はツアーを利用するのもおすすめです。
関連記事
チュニジア現地ツアー旅行記!古都カイルアン(KAIROUAN)!
チュニジア現地ツアーの旅行記!個人でアレンジする楽しみかた!
コメント
[…] チュニジア現地ツアーの旅行記!カルタゴ遺跡はなぜ破壊されたのか? […]
[…] チュニジア現地ツアーの旅行記!カルタゴ遺跡はなぜ破壊されたのか? […]